ドラマを見て語ってみる。『幼い頃の愛情の飢餓感について』

こちらでは深夜に放送しているドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」

先日の放送で、主人公が子供時代にやり残した経験というか、自分の中の欠落した部分を埋めるため?今から「やり直す」ために、父を動物園に誘ってみる。という回でした。

ドラマを見て思うところがあり、ちょっと書いてみたくなりました。

親からの愛情の欠如と飢餓感

誰しもが思うように親の愛情を受けて育ってくるとは限りませんし、物心つく前の出来事ですから、「どうして欲しかった」という自我は、後付けで考えるものというか、後から気付くものなのだと、主人公が自らの感情を分析していた事からも感じます。

けれど、自分も人の親ではないものの親になり得る年齢になって思うのは、「人格形成のすべては親との関係によるもの」というのには、無理があるというか、そうとばかり決めてかかるのには難しいと感じるところもあり。

かと言って、やはり幼少期の大人、養育者との関わり方によって、その後の人生を生きていく考え方の基礎や、自己肯定感の有無には大きな影響があるとは感じています。

愛情をたくさんかけてもらった子供は、愛されているという安心感から自己肯定感が安定しており、そのスタンスに立って物事を考えられる。

愛情が不足していると感じていると、心のどこかに飢餓感のようなものがあって、自己否定のスタンスに立って物事を考えがちになったり、卑下妬み嫉みのような感情を持ちがちになったり人を否定したり攻撃的に考えたりしてしまうのかもしれない。

足りないものを埋める方法

大人になってからのやり直しの方法もたくさんあるとは思います。

ドラマの主人公のように、実際に親と向き合ってやり直してみるのもひとつ。(実際には期待した体験は得られなかったというのがストーリーだったけれど。案外、現実もこうなりがちだとは思う。人はそう簡単に変わらないと思うから、苦笑)

セラピーに通うとか、そういったこともひとつ。伴走者を得て、自分自身で解決する

けれど、誰か身代わりになる人に依存してしまうスタイルだけはやってはいけないし、結果的にうまくいかない気がするのでおすすめはできないと感じています。

新たな共依存の関係性に陥ると、それはそれで別の問題が存在することにもなりそうですし、そのお話は割愛するとして、個人的におすすめだなと感じているのは、自分の「妄想力」を活用することだと感じています。

私のアトピーが限定3日間だけ完治した体験のお話につながるものではあるのですが、”脳みそを騙す”というか、思い込みの問題みたいな感じにしてしまうこともできるのかなと思っていることがあります。(前回書いた「思考の現実化」にも似たお話に感じています)

思考の方向性の参考として、妄想力と体の話

私自身も自己肯定感が低く、愛されている実感が持てない部分がありました。

過去形にできるほどか?と、まだわからない程度には、飢餓感を感じてきた人間です。

でも、愛情表現の下手な両親に対して、大人になってから「愛情をください」というのも、言ったところで「では、何をどうして欲しいのか?どうすればいいのか?」というのがお互いの戸惑いどころでもあると思います。

そこで、私がその問題が解決するヒントになると思った体験が、3日間限定のアトピー完治体験だったのです。

私のアトピーはいわゆる、「ストレスアトピー」みたいなもので、もう、体質改善云々とは違う部分になってきているのでは?と思ったのも、その体験があったからなのですが、内容としてはこうです。

愛され体験

当時、私は婚約破棄になり、鬱になって心身共にボロボロでした。仕事もなくし、一人で暮らしていた部屋も維持できないため引き払って実家に戻ることになりました。

結婚もしなかった、仕事も失った、お金も何もなくなった自分のことを、私自身はもう生きている価値もない、存在価値のない人間のように思えていたのですが、これまで自分に対して愛情を持ってくれていると感じていなかった両親が、その時はあたたかく、実家に帰っておいでと迎え入れてくれました。

普段なら髪の長い私に「水道代、ガス代がもったいないからお風呂に入るな」とさえいう母親が、帰宅した私を暖かい湯船につからせてくれた。

なんの苦言もいわず、あたたかいごはんを食べさせてくれた。

食べることもできなくなっていた私に、体を気遣って消化しやすいメニューにしてくれた。

暖かいお布団で眠れたその3日間の体験が、本当に両親が自分を受け入れてくれたと感じられる時間で、その3日間だけは、私の肌は薬も使わずに見る見る、目を見張るような改善を見せ、ツルツルすべすべの通常肌に戻ったのでした。

3日間限定。というのはその後、人というのは「慣れ」てしまいますので、また「日常」に戻り、あれこれ言われ始めるとお肌も元に戻った。というだけのお話ではあるのですが…。

ただ、上記の話をもってすれば、過去の体験そのものに問題があるのではなく、後からでも埋まるというか、あとからでもいくらでも受け取り直すことができる、と、感じた体験だったのです。

受け入れてもらえた。愛してもらえていると感じられた。

自分が単に「そう感じた」というだけで、身体が変化したというのは紛れもない事実でした。

自分の気持ちの騙し様

私の人生の自慢はなにか?と聞かれたら、「今、生きていること」なのですが、これは本当に大きなことだと思っています。

どんな人も、「今」生きてこの文章をもし、読むことができているというのであれば、それは、この文章に出会えるきっかけがあり、今現在、命がある。ということですものね。

世の中、いろんな危険と隣り合わせの中、生きてこの文章に出会ってくれてありがとうございます、と感じますし、それだけで、これを読んでくれた人は、「今、生きている」ということを、自慢に思ってもらいたいと感じています。

生まれてすぐ、一人では生きていけない時期を、どうにかこうにか、この文章が読めるような「今」に至るまで、育ててくれた誰かが存在する。

それが、いやいやであったとしても、泣くあなたのおしめを変え、食料を与え、窒息して死なない程度に気を配って、生かしてくれた

その時期を乗り越えて来たからこそ、「今」があるはずで、少なからずその時に、「命を生かそう」としてくれた人の愛情が、ほんの少なからずであっても、そこに「在った」ってことだと感じることに、私はしています。

私もその頃の記憶はありませんが、親に後から「ノイローゼになりそうだった」(アトピーで泣くとか痒がったり意味がわからないからってことで)と、祖母共々言われたクチで、成長してから「今」の傷に塩を塗り込むように、「過去」にまで傷口を広げて、何をしてくれているのだ?と、思ったものでしたが、そんなことでさえも、「そうは言っても」で、生まれたばかりの私を死なない様に世話してくれた事実があっての「今」ですから。

それを何倍にも感じ切って、極端な話ではありますが、自分の自意識のないころ、知らない自分のことをその当時、確実に愛してくれていたってことを思い切り増幅させて感じ切り、愛を受け止め切るという妄想によって、「愛されなかったわけではない、与え方が不器用だっただけだ」と、肯定する方向に転換できるのではないかと思っています。

まとめ。「飢餓感を埋めるのも自分の気持ち次第?」

相手は変わらない。けれど、過去に関しては、自分の気持ち次第でどこを切り取って感じ切るか、考え様によっては変わる

欠落していると感じている「カケラ」を見つけて、妄想力で増幅させて満たされること、受け取る用意をすること。自分一人で完結できることだったりするので、この方法は個人的にはとてもおすすめです。

私も日頃、忘れてしまいがちなので、湯船にひたっている時は時々、その時の感情や、愛情を感じ切ることをして、今生きている自分がありがたくて嬉し泣きしたりしています。😁

愛されている自分を信じられたら、現実がちょっとずつ変わる気がしています。

*両親の名誉のためにお伝えしておくと、決して虐待したりネグレクトということではなく、愛情の伝え方が期待値とずれていただけだと大人になった私は解釈しています。